
オレには西に「宮」がある。聖地。サンクチュアリ。
小六の夏から中三の夏までの丸三年しかいなかったのになぜこんなにもいつまでも大事な場所なのか、だいたいわかっちゃいるけど、さらに最近気づいたことがある。
例えばその宮にず~っと住んで暮らしている人は、
その後高校、大学、社会人を経たりして、
その間にいろんな、本当にいろんな、
相互の感情、感性、関係性、色恋沙汰(くっつき、離れ、ドロドロの結末含む)、
様々な事柄を経ることによって、
いたって現実的シビア路線(良い悪いひっくるめて)の中暮らしているのかもしれない。
でもオレは完全に中学の三年間のみで「カットアウト」。
その時の思い出だけが鮮度を保ったままフリーズパックされ、
古びることもなければ他の様々な要素が入り込む余地がこれからもない。
常に甘酸っぱいまま、いや酸っぱ過ぎで全くもって熟してないけど、
やっぱりそれは代替え不可、唯一無二のポジショニングにある。
そしてそこに行くといつもその「初期衝動」「事の始まり」に回帰することが出来、
いったんそこでまた自己を確かめることが出来る。
そこを離れもう30年以上たつが、平均すると2年に一回くらいはこれまでも行っている。
今回もまた行って参りました。西にあるその「宮」に参りました。
天からは全く歓迎されずじっとり雨が降る中、
「雨?だから何?」のままズンズン歩く歩く、自分のお決まりのコース。
楽器屋、球場跡地、路地、ドブ川、踏切、社宅、みかんの木、壁、墓地、ネギ畑、
井戸水、グラウンド、藤棚、高架下、川原、孤木、
変わらない場所もあれば激変の駅前・・・
黙々とただ歩く。
過去によくこの膨大なルートを歴代の恋人を連れまわし疲弊辟易させ、
親友と歩くにしてもそいつにしてみればいたって近所の日常の道で新鮮味ゼロ、
超迷惑だったんだろうなっていうのはこの10年くらいでやっと気づいた。
今回は完全に一人歩きを敢行し、思う存分に隈なく歩き、写真にもおさめた。
他人が見ても全くわからない、でもオレにとっては全てに物凄く意味がある場所、モノ。
孤独を堪能したあとにおとずれたのがその夜のあまりに賑やかで有難い宴。
昼と夜のギャップが凄い・・・
宮の人間たちが歓迎会をしてくれたんだが、正直あんなに人がたくさん来るとは思いもよらず、ていうか「赤澤が来るらしい」が、
→「赤澤がこっちに帰ってきてこっちで住み始めるらしい」
みたいに思われてる(店どうする)歪曲も含め、
でもとにかく幸せ過ぎてヤバかったのと、
とてもじゃないがそれぞれの人々と話し足りないままお開きになった。
今度はまた2年くらいは行けないと思うけど、
そんな場所があることがどれだけ尊いことか。
アディオス Nishinomiya!
